写真を使った園主の日記です。

2023年3月18日 椿の花 早咲き椿(59) 『有楽(太郎冠者)』 その(2) 元祖 ワヒスケツバキ

2023.03.30

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椿の花 早咲き椿(59)

『有楽(太郎冠者)』 その(2)

元祖 ワヒスケツバキ

 

 

 

日本の文化を支えてきた椿の花!

 

中国伝来と石田精華園は考えるのです!

 

 

前回の有楽(太郎冠者)その(1)に引き続き、

いよいよ元祖ワヒスケツバキの有楽椿と侘び茶の出会い!

 

頃は室町幕府 八代将軍 足利義政の時代!

 

この等持院に足利義政が草庵の茶室を作ったのか?
という問題になってきます。

 

解説によれば尊氏百年忌の長禄元年(1457年)に等持院が復興された際には、

園内に掬月亭が建っていた。と!

 

銀閣寺内東求堂にある同仁斎は書院造りの始まり!

当初は室内に炉が切られ、茶を立てていたと見られると解説あり。

 

同仁斎は四畳半茶室の始まりと伝えられている。

 

この茶室に床の間ができるようになると唐物の花入れが飾られ、茶花が必要となったことです。

 

恐らくは当時の輸入椿、つまりは元祖ワヒスケツバキである太郎冠者、

後の有楽椿が使われたと考えるのです!

 

何しろ唐物に唐物椿、見せびらかしの世界でなければならなかったはず!

有楽椿は中国原産のピタールツバキとヤブツバキとの種間交雑種。

 

それまでヤブツバキか椿妙蓮寺しか見た事のない時の権力者達は驚きをさぞかし持ったことかと!

何回とも前回の有楽椿で解説したかと。

 

後々いけばなと茶道が大発展したのは床の間ができるようになったことが挙げられている!

 

 

話しは元に戻り、等持院になぜ有楽椿が植えられているのか?

 

言い伝えによれば豊臣秀頼寄進による等持院再建!
片桐且元が奉行となり、当時大阪城にいた織田有楽斎が有楽椿を植えた。

 

と有楽斎好みであったかのように!

 

 

石田精華園の考えはと言いますと!

義政公がここ等持院に草庵の茶室を建てたとするなば。
秘伝書「君台観左右帳記」に草庵の茶室があるのかということになりますが。

 

当時としては問題外。

 

恐らくは形式化していないくだけた、遊びの世界だったのかもしれません。

義政公が建てたとするならば、初の草庵の茶室となります。

 

何しろ見せていただくと上段の間があるには驚きと、成る程と感心!

 

茶花の一つには、当時輸入されたばかりの元祖ワヒスケツバキ、

後に有楽と呼ばれた小輪の椿でなければ様にならなかったはず。

 

それしか当時は演出する椿が無い時代!

言い換えれば画期的でもあったはず。

 

時代は侘び茶へと進んでいったのです。

元祖ワヒスケツバキは、後々義政公好みと!

 

太閤秀吉の時代には侘助椿、今で言う胡蝶侘助が生まれていた時代!

 

当時の人気のワヒスケツバキの侘助椿ではなかったのです。

有楽斎が再建時に参謀として、今でいうシンボルツリーの椿に有楽椿を植えたことは、

自身の好みであったとされています。

 

それは誤解であると石田精華園は考えます。

有楽斎はわかっていたのです。
義政公好みの椿が有楽椿と!

 

だから再建時に有楽椿を植えたのです!
義政公をしのんで!

 

 

 

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投稿日 2023.3.27
撮影日 2023.3.18

 

 

 

 

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